第10章 テクノロジーは中立ではない choiyaki
テクノロジーは中立ではない。
ある行為をしやすくし、他の行為をしにくくする属性(アフォーダンス)がある。
制約・前提条件・副作用があるがゆえ、相手に要求を課したり変化を強要したりすることになるので、テクノロジー固有の思考様式を押し付け、利用する人たちの思考パターンに影響を与える。
テクノロジーが成功して広がるぶんだけ、社会全体にも大きな影響をもたらす。
テクノロジーが支配する。
メディアはメッセージではない。
メディアは伝達手段であり、メッセージではない。メッセージはメッセージから理解されるもの。
とは言え、メディアが、メッセージの解釈の仕方を変える。
メディアはアフォーダンスを持つ。
印刷物は、読むペースを自分でコントロールすることをアフォードし、それにより内省をアフォードする。
また、精神の集中と努力をアフォードする。
テレビは、精神の集中と努力をアフォードはしない。テレビを見るのは簡単。
ペースをコントロールできないので、内省する暇はない。体験的。
内省できるシステムには、知識の内部表現と、その表現を調べ、変更し、比較する能力が必要。「構成可能な」表現メディアでなければ。
人間の心は、構成可能なメディア。
紙とえんぴつの組み合わせは構成可能なメディアで、人間の作業記憶をサポートしてくれるので、人間の内省を増強してくれる。
印刷物は、それだけでは構成可能なメディアではない。ペンやえんぴつが必要。
テレビも構成可能なメディアではない。
構成可能なメディアであれば内省できる、というわけではなく、複数のアイデアを練り上げ比較対象するための時間と能力が必要。内省のためのメディアは、そのための時間をアフォードしなければならない。
読書は上記要件を満たし、内省をアフォードする。
テレビが、見る人がペースを決めることができて行き戻りが可能なら、内省をアフォードする。
choiyaki.iconYouTubeは見る人がペースを決められるが、あれほどまでに体験的なのはなぜか?その気になれば内省する時間を取ることができるが、そうすることはあまりない。
人間の心は構成可能なメディアなので、どんなテクノロジーをも内省的なものに変えることができる。
が、テクノロジーが適切な場合に限る。
漫画や昼のメロドラマとかは、体験的な性質が強い。
choiyaki.iconこれは、テクノロジーの話?メッセージの話ではないのか?と思った。
YouTubeも、この範疇に入るのであろう。
罪悪感を得る理由は、テレビそのものではなく、テレビによって心地よく支えられる体験モード。
娯楽は体験的で、それをエンターテイナーに任せていたら感情に訴えるチャンネルばかりになり、地上の全ての人が毎日毎秒利用することになる。
テクノロジーは中立ではなく、ある種の営みを促進する一方で、他のものを妨げる。それにより、社会の行く先を左右し得る。どちらに進むかは、われわれに委ねられている。
今まで辿ってきたテクノロジーがすべて間違っていたというわけではない。テクノロジーにはうまい使い方というものがある。
適切な道具(物理的なアーティファクト)は、人間のニーズにもとづいてデザインされている。人間中心。
認知のアーティファクトには、手で使う様々な道具にある伝統的なデザインというものがない。
適切にデザインするのが難しい。
難しいのは技術的ではなく、社会的な側面。
機会中心になりがちだが、人間中心のテクノロジーの見方を探したいところ。
テクノロジーは、体験モードに陥らせることを目的とする、娯楽業界が、ドラマチックな効果を狙うために使われすぎ。
機械中心の見方の世界に反旗を翻さねば。
われわれは機械に従うべきではない。
科学が発見し、産業が応用し、人間後それに従う、ではなく、人間が提案し、科学が探求し、技術がそれに従う。